ゆく河の流れ、そして鴨長明の方丈石に思うこと
還暦を過ぎ、気がつけば世の中の動きを眺める時間が増えました。今の政治のありようにため息をつくこともありますが、思えば人の世というのは、まるで川の水のように絶え間なく流れ、同じ場所に見えても、そこにいる人々も、世を動かす流れも、五十年の歳月が経てば全く変わってしまうものですね。今の流れがたとえ思わしくないものであっても、せめて十数年後には、もう少し良い方向へと向かっていてほしいと願わずにはいられません。
そんなことを考えていますと、ふと、あの鴨長明(かものちょうめい)のことが頭に浮かんでまいりました。
日野の鴨長明氏の方丈跡地を訪ねて
少し昔のことになりますが、2009年の6月28日、たまたま仕事に区切りがつき、時間にゆとりができた頃でした。これといって目的もなく、ぶらぶらと醍醐(だいご)から日野のあたりを歩いておりましたところ、偶然にもある道しるべを見つけたのです。それは、「鴨長明の庵(いおり)の跡地はこちら」というものでした。
時間は十分にありましたので、せっかくだから少し寄り道してみようと思い立ち、山手の方へ進んでいきました。最初は舗装された道だったのが、やがて本格的な山道に変わった時には、少し心細く感じたのを覚えています。幸いなことに健脚なので、途中で引き返すようなことはないだろうとは思いつつも、初夏の時期でしたので、虫や蛇に出会わないかと、ほんの少し不安もよぎりました。
![]() |
そんな思いを抱きながら山道を進んでいきますと、案外すぐに方丈(ほうじょう)の跡地にたどり着くことができました。そこで私が抱いたのは、一つの疑問でした。「なぜ長明は、このような山間(やまあい)というか、林の中に庵を結んだのだろうか?」と。世捨て人として隠棲するにしても、もっと人里に近い大原(おおはら)や嵯峨野(さがの)のような平野部でも良かったのではないか。よりによって、まるで獣道のような場所を選ぶとは、一体どのような心境だったのだろうか、と思いを巡らせたのです。
決して深く分け入った山の中ではありませんが、それでも山の中の岩の上に住むことを決心したということは、やはり人との関わりを極力避けたいという気持ちの表れだったのでしょう。
私がこの場所を訪れたのは、ちょうどリーマンショックの後で、世の中全体が不景気に覆われ、私自身もまた将来に対する漠然とした不安を感じていた時期でした。鴨長明という人もまた、人生において様々な挫折を経験した人物だと聞いております。その方が隠れ住んだ庵の跡地を訪れることで、世捨て人とはどのような生き方を選び、どのような処世観を持っていたのか、ほんの少しですが、学ばせていただいたような気がいたしました。
「ゆく河の流れは絶えずして…」
『方丈記』の冒頭にある、あまりにも有名な一節です。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
この言葉は、中学や高校で習った頃よりも、人生の経験を重ねれば重ねるほど、より一層心に深く響くものがあります。ただ、その響きは、心が明るくなるというよりも、むしろ深い無常感(むじょうかん)や寂しさといったものを感じさせる響きです。そして、この言葉が持つ意味は、晩秋の物寂しい季節に触れると、さらに増幅されるように感じられます。
若い頃、「国語」や「古文」の時間にこの一節を習った時には、文字を目で追って覚えるだけだったように思います。しかし、歳を重ねると、その言葉の奥にある作者の感性や、もののあはれといったものを肌で感じることができるようになる。年齢を重ねるということは、本当にありがたいことだと、しみじみと感じる今日この頃です。
コメント
コメントを投稿