災害と、私たち人間以外のいのちのこと

 近頃、本当に災害が多いと感じます。大雨が降れば川が氾濫し、地震が起きれば山が崩れる。毎年のように日本のどこかで大きな被害が出ており、自然の猛威を痛感する日々です。

 しかし、少し視点を変えてみると、こうした自然が引き起こす出来事も、地球という大きな星が行っている、いわば「自然の土木作業」なのかもしれないと思うことがあります。気の遠くなるような時間をかけて、山を削り、土地を運び、海の形を変えていく。それは地球にとって、ごく自然な営みなのでしょう。

 一方で、私たち人間も、生きていくために様々な土木作業を行ってきました。住む場所を確保するために山を切り崩して土地をならしたり、海や湖を埋め立てたり。洪水が起きることを恐れながらも、川の流れを変えたり堤防を築いたりもしてきました。

 考えてみれば、こうした人間の都合で行われる土木作業は、そこに元々暮らしていた他の生き物たちにとっては、どう映るのでしょうか。彼らの家や、餌を得る場所、つまりは彼らの「生息域」を、私たち人間が一方的に壊していることにならないでしょうか。このことを、私たちは忘れがちです。

 「人間のためになることは正義だ」と、無意識のうちにそう思ってしまってはいないでしょうか。

 ほんの一例ですが、私たちが家を建てるために土地をならす時、土の中にはたくさんの蟻さんが暮らしています。彼らの住まいを壊して、その上に人間の家を建てる。そして、家の中に蟻さんが入ってくると、「困る」と言って殺虫剤をまいたりもします。

 山や森に暮らす熊さんが、人里に姿を現せば、「害獣だ」として駆除の対象となることもあります。私たち人間は、地球上に暮らす生物の頂点に立っているかのように振る舞い、他の弱い立場にある生命を脅かしたり、彼らの大切な住環境を遠慮なく壊してしまっているのが現実です。

 自然災害で山が崩れた、水害で家が流されたと、私たちは「災害は悪いものだ」と考えがちです。確かに、人間の生活にとっては大変な苦難です。しかし、私たちがこれまで行ってきた土木作業や開発行為も、別の視点から見れば、他の生物にとっては私たち人間による「人為的な災害」であったとも考えられるのではないでしょうか。

 人類が繁栄していくためには、ある程度の開発は避けられないのかもしれません。しかし、これまでの私たちは、少し行き過ぎてしまったのではないか、そんな風に感じることが増えました。

 今こそ、私たち人間以外の、この地球上で共に生きる他の生物たちの「生存権」について、もう一度真剣に考えるべき時が来ているのではないでしょうか。彼らの暮らしにも思いを馳せ、共に生きていく道を模索していくこと。それが、これからの私たちに求められていることだと、強く感じています。

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