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長年連れ添ったEvernoteとの別れ、そして新たなメモ環境へ

離脱   十年以上にわたり、私のデジタルメモ帳として活躍してくれたEvernote。思いついたこと、大切な情報、日々の記録に至るまで、実に多くの情報を蓄積し、活用させてくれた便利なツールでした。後から必要な情報を見つけ出す検索性の高さや、複数のメモを一つにまとめる機能など、その恩恵は計り知れません。  しかし、誠に残念なことではありますが、ここ数ヶ月の度重なる不具合の発生を受け、ついにEvernoteの使用を断念する決断をいたしました。長年、仕事や日々の生活で頼りにしてきただけに、この決断は非常に心苦しいものでした。 保存メモの断捨離  これを機に、これまで蓄積してきた膨大なメモを見直すことにしました。現役時代であれば、日々の業務に追われ、そのような時間は到底確保できなかったでしょう。15,000件にも及ぶノートは、かつての私にとっては貴重な財産でしたが、70歳という節目を迎えた今、その多くが必ずしも必要ではなくなっていることに気づきました。中には情報として古くなってしまったものや、今ではインターネットで検索した方が早く正確な情報が得られるものも少なくありません。むしろ、膨大なデータの中に本当に必要な情報が埋もれてしまい、かえって不便に感じる場面もありました。  全てのノートに目を通し、整理した結果、今後も手元に残しておきたい大切な情報は300件ほど、その中でも日頃から参照する可能性が高いものは70件程度となりました。これらの厳選したデータは、現在、Google ドキュメントやスプレッドシートへと移行し、特に頻繁に利用するものはGoogle Keepにも写して、いつでも確認・更新できるようにしています。 新しいアプリへ  大半のデータは削除し、Evernoteのアカウントも閉じることになりました。これまで長きにわたり私の知的生産活動を支えてくれたEvernoteには、感謝の気持ちでいっぱいです。不具合がなければ、おそらく今も使い続けていたことでしょう。しかし、結果として、自身のデジタル情報を整理し、身軽になる良い機会にもなりました。これは、ある種の「終活」の一環とも言えるかもしれません。  現在利用しているGoogleの各種アプリは、それぞれがシンプルながらも必要十分な機能を備えており、データの連携もスムーズです。移行当初は慣れない部分もありましたが、今では...

安倍元総理の国葬によせて思うこと

 先日、安倍元総理が遊説中に凶弾に倒れるという、本当に痛ましい事件が起きてしまいました。このような形で人の命が奪われることは、決してあってはならないことです。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 何故、国葬?  そしてこの度、政府は安倍元総理の国葬を行うことを決定したとのことです。長くこの国の舵取りを担ってこられた方ですから、国葬という判断も、それ自体は政権を委ねている以上、ある意味では仕方のないことなのかもしれません。自民党政権が決めたことですから、その判断に従うということなのでしょう。  ただ、私個人の気持ちとしては、正直なところ、今回の国葬に際して、心から「喪に服す」という気持ちにはなれないでおります。「どうぞ、お決めになった通りに進めてください」というのが、偽らざる心境、と申しましょうか。  かといって、この決定に対して声高に反対の声を上げるほどの気持ちも、今は湧いてこないのです。これから国葬に向けて、世間では様々な議論が起こってくるのでしょうね。賛成される方、反対される方、それぞれの立場からの意見が出てくることと思います。  そんな中で、私が今、一番関心を持っているのは、国葬が行われる その日のこと です。  果たして、国葬当日はどのような雰囲気に包まれるのでしょうか。国民の多くが、本当に心から喪に服し、静かに故人を偲ぶ一日となるのか。それとも、政治家の方々が中心となって儀式は進められる一方で、世間一般は普段とあまり変わらない一日を送ることになるのか。  その日の国民の空気感といいますか、そのあたりに、今の政権と私たち国民との間の、目には見えない「距離」のようなものが、はっきりと表れるのではないか。そんな風に感じているのです。それが良いとか悪いとかいうことではなく、今の日本の姿を映し出す、一つのバロメーターになるのではないかと、個人的には注目しています。  国葬当日がどのような日になるのか、今はまだ分かりませんが、静かにその日を迎え、世の中の様子を見守りたいと考えております。

全てをEvernoteでやりたかったのだが

 長年、私のデジタル周りのことは、Evernoteというノートアプリ一つで完結しておりました。メモを取ることから始まり、文章の作成や下書き、日々のやるべきことリスト(Todoリスト)、確認事項のチェックリストに至るまで、まさに万能選手として頼りにしてきたのです。いわば、長年の付き合いからくる「義理立て」のような気持ちもあって、ずっと使い続けてまいりました。 必要な時に使えない  しかし、ここ最近、その Evernoteの動きがどうにも芳しくありません。 正直なところ、かなり苛立ちを覚えております。例えば、急ぎの電話がかかってきて、関連する資料をEvernoteの中から探し出そうとしても、すぐに出てこない。あるいは、チェックリストの項目を確認し、チェックを入れて次の作業に移ろうとした瞬間に、画面が固まったように反応しなくなり、数分間も待たされることがあるのです。  こういった「待ち時間」が頻繁に発生するようになり、日々の行動に無視できないほどの遅れが生じ始めています。「すぐに確認したい」「すぐに次に進みたい」という、ごく当たり前のことができない。このもどかしさが、積もり積もって大きなストレスとなっております。  私にとりましては、過去に Evernote に溜め込んできた膨大な情報(そのほとんどは、正直なところ見返すこともないのですが…)よりも、今この瞬間の行動をスムーズに進めることの方が、何倍も重要なのでございます。行動のために本当に必要なリストは、おそらく50個もないでしょう。しかし、その僅かなリストが、必要な時に、必要な瞬間に、パッと出てこないのでは、全く意味がないのです。 戻ってこい快適なEvernote  長年連れ添ってきた道具だからこそ、このような状況は非常に残念でなりません。まるで、長年信頼してきた相棒に裏切られたような、そんなやるせない気持ちにさえなります。  もちろん、これまで大変お世話になってきた恩義は感じております。だからこそ、切に願うのです。どうか、かつてのような軽快で頼りになるEvernoteに戻ってほしい、と。改善されることを、今も心のどこかで期待している自分がおります。

確率とはなんぞや

【パチスロ体験談】確率の罠?タイバニで天国から地獄へ… 5円スロットの甘くない現実 皆さん、こんにちは! 気分転換のつもりが、いつの間にか心を揺さぶられるパチスロの世界。今日は、私が5円スロットで味わった、まさに天国と地獄のお話です。(小心者の私は20円スロットは怖くて!!) そう、「TIGER & BUNNY」を打っていました。普段は「波が良い」「悪い」なんて後付けで一喜一憂している私ですが、その時は違ったんです。 突如訪れた、最高の瞬間! なんと、大当たり確率「1/13」を「30回転」以内に引けばボーナス継続、という、とんでもない激アツ状態に突入したのです! 「キターーー!これはどこまで続くんだ!?」 脳汁があふれ出すような感覚。以前、同じような状態で6連チャンした記憶が蘇り、「今日は記録更新か!?」なんて、もうワクワクが止まりません。諭吉が舞う姿まで見えてくる始末(5円スロットだって!)。完全に有頂天でしたね。財布の中身が増える未来しか想像できませんでした。 しかし、現実は非情だった… 期待に胸を膨らませ、レバーを叩く指にも力が入る。頼む、続いてくれ…! …シン。 あれ? ……あっさり、終了。 「え? 嘘でしょ? なんでだよ!!!」 一瞬、何が起こったのか理解できませんでした。あの激アツ状態が、たったの一度も継続せずに終わるなんて。前の6連チャンは幻だったのか? 心の中で叫び、怒りにも似た感情がこみ上げてきました。なんで俺だけこんな目に…! しばらく、台の前で呆然としてしまいました。まさに天国から地獄へ真っ逆さま。あの高揚感はどこへやら、残ったのは深い、深〜い絶望感だけでした。 「1/13」の数字に隠された真実 放心状態から少し我に返り、ふと台の表示を思い出しました。確かに「1/13で30回」の横に「継続率〇〇%」みたいな表示があったような…。 もしかして、と思って自分で計算してみたんです。継続しない確率、つまり30回連続で1/13を引けない確率を。 そしたら… 約10% 。 そう、約10回に1回は、あの最高の状態ですら駆け抜け(単発終了)てしまう計算になるんです。 「1/13で当たる!」 この数字だけを見て、完全に「続くものだ」と思い込んでしまっていたんですね。継続「しない」可能性だって、十分にあったわけです。 結論:期待はほどほどに 今回の件で痛...

石原慎太郎氏死す

  石原慎太郎氏の逝去を悼む  作家であり、東京都知事も務められた石原慎太郎氏がご逝去されました。訃報に接し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。  私にとって石原慎太郎氏は、若い頃、特別な存在でした。大学三年生の時、有志の仲間たちと技術系の会社訪問旅行に参加したのですが、その夜、旅館で私たちは少々羽目を外してしまいました。性器で障子を破ったり、当時流行していたストリーキングを浴室から部屋まで全裸で走り抜けたりと、今思えば若気の至り、世相や彼の小説の影響もあったのかもしれません。ただ、あの時は、ほんの少しばかりのバカ騒ぎがしてみたかっただけなのです。後日、引率の教授には笑いながらも叱られましたが、今となっては懐かしい思い出です。  弟の裕次郎氏にはどうも親しみが持てなかったのですが、兄である慎太郎氏には、硬派なイメージを抱き、どこか崇拝する偶像のような存在として見ていました。彼の作品には、若者のエネルギーや葛藤、そして社会に対する鋭い視点が描かれており、当時の私にとって、それは新鮮で刺激的なものでした。  東京都知事としての石原慎太郎氏の功績や評価は 多岐にわたりますが、作家としての彼の残した作品群は、これからも多くの人々に読み継がれていくことでしょう。若き日の私に強烈な印象を与えた彼の文学は、今も私の心に深く刻まれています。 改めて、石原慎太郎氏のご冥福を心よりお祈り申し上げますとともに、謹んで哀悼の意を表します。

自転車と、体の声と、年齢

 自転車との付き合いは、もうずいぶんと長くなります。思えば、学生として若かった頃と、そして古希を迎えようとしている今とでは、同じ自転車に乗っていても、体の感じ方、そして筋肉の声の聞き方が、随分と変わったように思います。  高校生から学生にかけてのあの頃は、とにかく体を動かすのが当たり前で、自転車に乗る時も無意識にペダルを力強く踏み込んでいました。坂道でも平地でも、太ももの筋肉がパンパンに張って、「もう無理だ!」と 悲鳴をあげるような感覚が、どこか心地よかった。 追い込んでいる自分に、一種の快感すら覚えていたのかもしれません。逆に、力を抜いてだらだらとゆっくり足を回していると、まるでサボっているようで、妙な罪悪感すら感じたものです。 体をいじめ抜くことに、若さゆえの価値 を見出していたのでしょう。これは、ランニングで息が切れ、足が重くなる感覚に喜びを見出していたのとも、どこか似ていました。  それがどうでしょう、70歳を目前にした今、自転車のペダルを漕ぐ時に、あの頃のような「さあ、やるぞ!」と力を込めようという気持ちが、全く起きないのです。 筋肉が躍動する力強い感覚に、喜びを感じることもなくなりました。 今は、少しでも無理をさせようとすると、かつて快感にも似ていた筋肉の「悲鳴」が、ただの辛く苦しい感覚として全身に響いてくるのです。若い頃は当たり前のようにできていた、信号待ちからの立ち漕ぎなども、今では体が思うように動かず、難しくなってしまいました。  若い頃は体を追い込むことに張り合いを感じ、筋肉の疲れさえ心地よかったのに、今はただ体を労わることしか考えられません。あの頃の漲るような活力は遠い昔の思い出となり、体力の衰えをしみじみと実感しています。自転車に乗る時間も、スピードや距離を競うのではなく、ただ景色を眺めながら、心地よいペースで走ることを楽しむ時間へと変わりました。体は正直ですね。自分の年齢と体をきちんと受け止めて、無理なく日々を過ごすことが何より大切だと感じています。