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【振り返り】書こうと思えど筆が進まず… 齢を重ねて思うこと

 かねてより、心の奥底には何か書きたいという思いがじんわりと湧き上がっていました。まるで、豊穣な大地が作物を育むように、私の中に様々な想いや経験が蓄積されているような気がしていたのです。そして、ようやく自由な時間ができ、誰にも邪魔されない書斎という名の舞台も整いました。さあ、思う存分筆を執り、言葉を紡ぎ出そうと意気込んでキーボードに向かったのですが……現実は、なかなか厳しいものでした。指先はまるで意思を持たないかのように、キーの上を彷徨うばかり。頭の中には漠然としたイメージはあるものの、それを具体的な文章として形にする力が、今の私には不足しているのだと痛感しました。 思えば、若い頃から文章を書くことに慣れ親しんできたわけではありません。常に頭の片隅には「いつか書こう」という思いがありながらも、日々の雑事に追われ、その機会を先延ばしにしてきたツケが回ってきたのでしょう。もし、あの時、書くという行為を日々の習慣とし、少しずつでも実践を重ねていれば、今こうして筆(キーボード)が止まってしまうこともなかったのかもしれません。 将棋界の若き天才、藤井聡太氏のストイックな姿勢をニュースなどで拝見するたびに、感銘を受けると同時に、自身の甘さを痛感します。彼は、盤上のことだけをひたすらに研究し、考え、実践することで、驚異的な集中力と実力を身につけられました。もちろん、若さと才能という要素は大きいでしょう。しかし、68歳を迎えた私も、彼のように一つのことに真摯に向き合い、意識して集中する訓練を続ければ、少しずつでも集中力は取り戻せるのではないか、というかすかな希望を抱いています。 しかしながら、正直なところ、年齢を重ねるごとに気力というものはどうしても衰えていくものだと感じています。若い頃のような、溢れんばかりのエネルギーは、今どこへやら。それでも、まだ諦めるわけにはいきません。細々とでも、自分のペースで、心に湧き上がる想いを言葉として残していくこと。それが、これからの私のささやかな目標です。焦らず、諦めず、少しずつでもキーボードを叩く習慣を取り戻せるように、日々を大切に過ごしていきたいと思っています。

古希を過ぎてなお、走りたかった日々

振り返れば、若い頃から走ることが好きで好きでたまらなかったのです。「ジョギング」という言葉がまだ世に浸透していない頃から、私はただひたすら、路を駆けておりました。当時、路上を走る姿はまだ珍しかったようで、時折、奇異の目で見られたものですが、そんなことは気にも留めず、走ることが私の日常そのものでした。 いつまでも、こうして走り続けられるだろうと、何の疑いもなく思っていました。歳を重ねても、きっとジョギングくらいはできるだろうと、甘く考えていたのです。 しかし、寄る年波には勝てません。腰痛や肩の痛みも経験しましたが、幸いなことに、リタイアしてからはずいぶんと楽になりました。ところが、膝の痛みだけは頑固に居座り続けているのです。関節内にヒアルロン酸の注射を定期的に受けていますが、どうしても痛みがぶり返してしまいます。 今は、ゆっくりとした散歩をするのがやっとです。それさえも、突然、痛みがひどくなる時があるため、遠出はためらってしまいます。結局、足を踏み出すこともままならない日は、スポーツジムのトレッドミルの上で、歩く真似事をすることになるのです。 かつては、風を切って走ることに喜びを感じていた私が、今はただ、痛みなく自由に歩けることを願うばかりです。そして、心の奥底では、諦めきれない夢がまだ 潜んでいます。いつの日か、この痛みを克服し、せめて一時間、できれば二時間、再び大地を蹴って走りたい。それが、今の私のささやかな、しかし切実な目標なのです。

ホームページの記事作成について思うこと

意味のある記事を書き続けるには、強い意志と根気、そしてそれに見合う能力が求められます。漠然と「何か書きたい」と思うのではなく、「こんなホームページを育てていきたい」という明確なイメージを心に描くことが大切だと感じます。 もし、そのイメージが曖昧なままだと、今自分が一体何を書いているのか、途中で不安に駆られることがあります。いや、不安というよりも、時に書いていること自体が無意味に思えてしまい、キーボードを叩く手も、マウスを動かす指も、重く感じられるのです。「本当に書きたいことは、こんなことではないのに…」と、心が叫び出すこともあります。 頭の中で思い描いた理想像を、言葉や簡単なスケッチにしてみても、なぜか最初の構想からズレているように感じることがあります。しかし、諦めずにいくつか書き進めていくと、たとえ今は小さな断片に見えても、それらは将来の大きな構想を支える大切な要素なのだと気づかされます。今はまだ、最終的な形が見えないだけで良いのです。 ホームページ作成の技術がまだ未熟な段階からスタートし、少しずつ知識が増えていくにつれて、面白いことに、最初の構想そのものが進化していくことがあります。すると、過去に自分が作ったものとの間に、どうしても辻褄が合わなくなってくる。これもまた、悩ましい問題です。古いものをすべて壊して、一からやり直したくなる衝動に駆られるのです。 しかし、私はその気持ちをぐっと堪え、「蓄積こそが財産である」と心の中で唱えています。過去の試行錯誤も、今の自分を形作る大切な糧となっているはずですから。

残された時間を、豊かに生きるということ

私は六十八歳を迎え、長らく勤めた会社をいくつか退職しました。今、心には複雑な思いが交錯しています。まだ働きたいという気持ちと、このまま穏やかな老後を送りたいという願い。しかし、もし職を探したとしても、すぐに見つかるとは限りません。そして何より、何もせずに日々を過ごすことは、私にとって認知症を患った兄の姿が重なり、大きな不安でした。 会社という組織に身を置いていた頃は、「いつか余暇で何かを成し遂げたい」「何かを作り上げたい」という思いを抱きながらも、日々の疲労に負け、結局は横になったり、お酒を飲んだり、映画を観たりして、本当にやりたいことに着手できませんでした。朝には「今夜こそは少しでも進めよう」と決意するのですが、会社から帰ると、どうしても自堕落な過ごし方をしてしまうのです。 これから先の人生は、より自由な時間が増えることでしょう。「怠惰な余生だけは送りたくない」という思いは、今も強く心に持っています。 そこで、改めて決意したことがあります。それは、私が長年の会社生活で培ってきた実務の経験、その精髄を、このホームページに ゆっくりと、しかし確実に 綴っていくということです。それは、誰かの役に立つかもしれないささやかな試みであり、私自身の生きた証を未来に残す行為でもあります。 もちろん、老後の生活には様々な不安がつきまといます。体力のこと、健康のこと、そして先の見えない将来のこと。しかし、立ち止まっていても何も始まりません。過去を振り返ることも大切ですが、それ以上に、今この瞬間を大切にし、できることを精一杯行うことが、これからの人生を豊かにする鍵となるのではないでしょうか。 ホームページ作りは、決して簡単な道のりではないかもしれません。しかし、目標を持ち、少しずつでも前進していくことで、私はきっと新たな喜びと生きがいを見つけられると信じています。そして、その過程で得られる充実感は、老後の不安を打ち消し、明日への活力を与えてくれるはずです。 人生は、いつまでも学びと挑戦の連続です。これまでの経験を糧に、これからの時間を大切に、そして積極的に生きていきたい。そう強く思う今日この頃です。

書いている事への不安、不満

 最近、自身のホームページに書き綴っている内容が、まるで日記のようになってしまっていることに、ふと気が付きました。「果たしてこれで良いのだろうか?」と自問自答する日々です。 そもそも、ホームページというものは、その目的が人それぞれに異なるはずです。個人のサイトと、企業が運営するものとでは、当然その役割は大きく違うでしょう。 では、私自身のホームページの目的は何なのでしょうか?今、改めて考えると、明確な答えを見出せずにいます。 目的がないままに書き進めてしまうと、どうしても焦点が定まらず、とりとめのない戯言のような内容になってしまいがちです。他の方の個人的な戯言を、私自身が進んで読みたいとは思えません。それなのに、気が付けば、自分の書いたものが、もしかしたら誰にも読まれないような代物になっているのかもしれない。そう考えると、少し不安な気持ちになります。 過去に自分のサイトで書いていたものを、こうして改めて見つめ直し、反省する機会をいただけたことは、幸いです。今一度、自身のホームページのあり方、そしてこれから発信していく内容について、じっくりと考えてみたいと思います。

またしても、変わらぬ政治への憤り

 あの頃、旧社会党の土井さんが「山が動いた」と高らかに叫んだ時、あるいは旧民主党の小沢さんが水面下で力を振るった時、私たちは政治が大きく変わるかもしれないと、胸を高鳴らせたものです。しかし、今回の安倍首相の退陣劇には、当時のような期待感は微塵もありません。 むしろ、災害と感染症が蔓延するこの時代において、政治が大きく変わることへの期待など、とうの昔に捨て去ってしまったのかもしれません。変わることを恐れるのではなく、変わらないことに慣れてしまったのでしょうか。小さな変化の積み重ねこそが現実であり、大きなうねりは、もはや私たちの世代のものではないのかもしれません。 しかし、そう達観してしまう自分自身への怒りもまた、確かに存在するのです。本当にこれで良いのか、と。未来を担う若者たちに全てを託すのは、私たちの世代の責任放棄ではないのか、と。彼らの若い力と新しい視点に期待する一方で、私たち自身の諦めが、現状を甘んじて受け入れる空気を作り出しているのではないか、という拭いきれない憤りが、心の奥底で渦巻いているのです。